歴史

過去から現代まで伝わっているロシアの白兵戦は、さまざまな文書に基づき、2種類存在すると言うことができます。つまり、団体戦「ステンカ・ナ・ステンク(ステンカとは、ロシア語で壁を意味し、ステンカ・ナ・ステンクとは、壁対壁という意味です。)と、1対1の個人戦(サム・ナ・サム)です。ロシアの白兵戦の競技者は、団体戦にも、個人戦にも参加することが可能です。

ロシアの白兵戦、またはロシアスタイルの白兵戦は、ロシアに起源を持つ肉体と精神の発達のためのシステムであり、ロシアの白兵戦の非常に多種多様で、数多くのシステムの真髄であると言えます。

現代的なロシアの白兵戦は、2つの主要な部分に分けることができます。つまり、スポーツとしての白兵戦と、実践としての白兵戦です。

スポーツとしての白兵戦は、最も効果的に身体能力の向上と人の戦闘能力の鍛練を促し、スタミナ、スピード、冷静さ、決断力を鍛えます。

ロシアスタイルの白兵戦は、突然の攻撃など、現実的な敵との戦いにおける最も困難な状況から抜け出すために、必要な瞬間に効果的な技を用いる可能性を与えてくれます。

また、スポーツとしてのロシアの白兵戦は、試合に参加することを念頭に置いています。実践的な白兵戦は、3つの部門から成り立っています。武器を使用しないフルコンタクトの戦い、自らは武器を使用せず武器を使用した相手との戦い、2人、またはそれ以上の武器を使用しない、または武器を使用した相手との戦いです。

ロシアにおいて、マーシャルアーツは太古の昔、つまりロシア人が人種として形成された時期に発生しました。その起源は、伝統的な民衆の競技である「ザバーバ」にあります。この娯楽には、異教時代(紀元1000年紀)のロシア人のマーシャルアーツに特徴的な1対1の戦いの技と戦術が含まれています。

白兵戦のメソッドは、クニャージ(公)の親兵の間で、職業軍人を養成するために利用されました。私たちの時代まで伝えられた歴史的な文書(ロシアの年代記、中世ヨーロッパの文書)、また、ブィリナ(古代ロシアの英雄叙事詩)と伝説がこのことを裏付けています。

全てのブィリナでは、例外なく、白兵戦の重要性が強調されています。英雄たちは、武器を使用した戦いでは、なかなか決着をつけることができません。馬から降りての白兵戦によってのみ、どちらかが勝利することができるのです。

ロシアの『原初年代記』には、992年、ペレスラブリの近郊で、ペチェネグ人の王が、ウラジーミル・キエフスキーに「そちらのの戦士を出してみよ。我は、我らが戦士を出そう。白兵戦で戦わせてみようでなないか。」と戦いを挑んだとの記述があります。

7、8歳の男児たちは、同年代の男児たちからなる敵のステンカ(例えば、村の反対側に住んでいる男児たちの)を相手とした殴り合いである「ステンカ・ナ・ステンク」に参加していました。彼らと交代する形で、自分たちのリーダー(同年代の中から選ばれた者)を先頭にしたティーンエージャー達が、殴り合いに参加し、戦列を組んで戦いました。その後、ティーンエージャーのステンカのうちの一方が、敵の圧迫に屈すると、年長者つまり大人たちの本物の戦いにおいて戦列の翼を担う17~19歳の青年達によるステンカが加勢に加わりました。伝統的な祝日の白兵戦の競争で、若者たちは、肉体的に発達しただけではなく、高い自制心と責任感を身につけました。

白兵戦は、欺瞞や残酷さや卑劣さとは相容れないものであり、本当の意味での男性の教育において、非常に重要で、切り離すことができない部分であったのです。